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 しばらく呆けていたんだと思う。
 とぽぽぽ、とポットからカップにお茶を注ぐ音ではっと我に返った。
「……えぇと」
『整理つきました?』
 ラミエルさんは優雅に紅茶を飲んでる。ティーカップに口づける天使……妙に様になってるのはなにゆえ?
「……ほんとに、天使さま?」
『羽触ってみます?』
「……」

 ふぁさ。
 もしゃもしゃもしゃわしゃわしゃわしゃ、ごりっ。
 あ、ここかたい。一番上は骨か、なるほど。

「……動かせます?」

 ばっさばっさばっさ。
 バサバサッ

 妙にコミカル。
「ふふっ」
 思わず笑ってしまった。
 ――精神科が必要なのはわたしのほうかな、ひょっとして。

「――それで?」
『お話、聞く気になって頂けました?』
「敬語はけっこうです。とりあえずお話だけは最後まで聞かせていただきましょう。もう毒を食らわば皿までです」
『毒とはご挨拶な。しかし、その気になってもらったなら気が変わらぬうちに。
 先程も申し上げたようにこの世界とは別の世界が同じ時間軸上にいくつも存在するのですが、そのうちの一つがこのところどうも妙な按配で。不規則に時間が逆行したり、過去へ巻き戻されたりして、時間軸から大きく外れていこうとしているのです。
 そこで、佐倉さんにはちょっと異世界まで出向してもらって、タイム・パラドックスを修正してきてもらいたいなー、と』

 口調が砕けた! なー、って何、なー、って。たしかに敬語はいいって言ったのわたしだけど、でも。

 ――じゃ・な・く・て!

「……どうやって?」
『それが分かれば苦労はしない!』
 きっぱり。
「――やっぱり、断らせていただきます」
『待った待った。原因が分かればおそらく解決法もすぐ見つかるはずです。でもまずその原因を突き止めないことには。というわけで、現地派遣スタッフが必要なのです』
「どうしてご自分でいらっしゃらないんですか? 何でわたしなんですか」
『良くぞ聞いてくれました! そこそこ、まさにそれ。
 その理由は二元論を用いて説明することが出来ます』

 数学の授業みたい。

『世に存在する森羅万象のその在り方には大きく分けてふたつあります。霊的存在と物的存在です。イデアと現象、イメージと物質、空と色、呼び方は様々ですが、このことは古今東西の思想家により長く論じられてきました』

 ……倫理の授業みたい。

『偉大なる主をはじめ、人が神、天使、精霊、悪魔などと呼ぶ存在は基本的に霊的存在です。他方石ころや大気など原子から構成されるものを物的存在と呼びます。人は霊的存在でもありながら物理的にも存在しています。人体の構成要素は水やナトリウム、リンなど細かく分けることが出来ますが、精神的な感情や思考はそれとは別次元に存在していることは分かるでしょう。
 そして、例えばどれだけ人を憎んでも憎しみだけでは相手に傷ひとつ負わせることが出来ないように、霊的存在は基本的に物的存在に干渉出来ません。物理的世界の問題は物的存在に解決してもらうしかないのです。とはいえ、問題を理解しているのは霊的存在の我々のみ。

 というわけで、人間の桜さんにやって頂くのが最適、と』
「無理です」
『そこを何とか』
「ユダヤ教とかキリスト教とかイスラム教の神さまは万能なんでしょー、何とかできないんですか。ついでにラミエルさんが霊的存在の天使さまなら何でさっきわたしがさわれたんですか」
『主の御力をもってすれば何事も不可能ではありませんが、何て言うのかなー。それやっちゃうと色々とアレでねー。歩いて行ける場所にジェット機で飛んで行ったりしないでしょ? 片手に収まるものを運ぶのに2トントラック使わないでしょ? そんな感じで、事が大きくなりすぎてしまうんですよ』
「……さっき、ことは世界の存亡に関わるほど重大だっておっしゃいませんでした? それでも?」
 世界が滅びるとかって、それこそ神さまの出番じゃないかなぁ。
『まあ、いざとなったらね。今はまだその前段階です。斥候も立てずに最高指揮官と最強兵器投入するわけにいかないでしょ。
 霊的存在にも階級がありましてね、低い階級の天使だと具現化出来るのです。今みたいに人に啓示を与える時とかに。人間ってやっぱり形から入らないと分かりにくいみたいですから。大天使なんて下っ端なのですよ、七階級の下から二番目ですよ』
「知りませんよー」
 もう理屈になってるんだかなってないんだか。むちゃくちゃ。
 つまり何だろう、わたしは……たとえば穴の開いた靴下を買いかえる前に、まずは何とかつくろえないか試す針と糸みたいなもの?
 ……われながら、なさけないたとえだけど。
 だけど靴下つくろうのって、実は言うほど簡単なことじゃないのにぃ。穴が開くところなんて布地が伸びるところだから、しっかり縫い合わせないとすぐまただめになる。かといってあんまりがっちり縫いとめちゃうと伸びきらなくて、はけたものじゃなくなるし。だからつくろって何とかなるのなんて、穴がごく小さいうちだけなのに。

『だからこそ、ですよ』

 ――ほぇ?
 頭の中が靴下だったわたしは、気づかないうちに足元に視線を落としてたようで、ラミエルさんの声に顔を上げた。

『正直に申し上げて、今はまだそれ程深刻な被害が出ている訳ではありません。しかし今かがっておかねば穴は大きくなる一方、やがて取り返しがつかなくなる』
「!」
 ――わたし、声に出してた? ううん、そんなはずない。
「どうして、わたしの考えてることがおわかりに?」
 ほっぺが引きつる。

『いやほら、そこはそれ天使だからということで』
「……」
『これくらい出来ないとそれらしいところがないじゃありませんかー』
 いえ、もう十分すぎます。
 なんていうか、眉間にしわが寄りそう。むー……
 ――という気分でお茶を飲んでいたら、ふっとラミエルさんが真剣な表情に返った。

『ですから、時間がないのです。被害は最小限に、出来ればゼロに、食い止められねばなりません。その為には一刻も早く行動を起こして頂かねば。
 ご決断願います、佐倉桜さん』

「……」

 ――どう、しよう。

 どうしよう。
 いやだと言うのは簡単。だけどもし――もし、万が一、それによって大惨事が起きたら?
 あの夢が、もし現実になったら。わたしはそれに耐えられる?  やることをやって、それでもどうしようもなかったなら、そのときは少なくとも自分なりに納得はできる。最低でも、あきらめはつく。だけど。

 行動を起こした後悔より、起こさなかった後悔のほうが根は深い。

 カップを置いた。まっすぐ、金色の両目を見すえる。

「信じて、いいんですね?」

『人からの信用や信頼を一度でも裏切るようなことがあれば、我々は存在意義すら失うのですよ。たとえ貴方が私を信じられなくとも、私は貴方に対して偽ったり不誠実な行いを働いたりすることは絶対にありません。神かけて誓います』
「……」

 ――腹のくくり時、かな。

 わたしは未熟で、バカだ。だけど自分のいたらなさがどんな結果を招いても、責任は負わなきゃ。


 ――できるね?

 する。


 深呼吸ひとつ。

「――わかりました」




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